「もってけ!セーラーふく」と「かえして!ニーソックス」に関する妄想考察。

いまさらながら"もってけ!セーラーふく"と"かえして!ニーソックス"の歌詞について考えてみる。
きっかけはこの前読んだアニソンマガジン畑亜貴インタビューが思いのほか物足りなかったから。
歌詞そのものに触れている部分が非常に少なかったので勝手に妄想してみる。


"もってけ!セーラーふく"と"かえして!ニーソックス"は「らき☆すた」のアニメ化の際作られた歌で、
もってけ!セーラーふくはOPとして使用され、かえして!ニーソックスはそのカップリングとしてCDに収められた歌である。
両方ともは「畑亜貴」のよって作詞されている。
発表当時から"ハルヒ"に続く京都アニメーション製作による"踊るOP"でありラップ調で展開される意味不明な歌詞の解読で注目を集めていた。
"もってけ!セーラーふく"に関してはこれまでにいろんな考察がネットに挙がっている。
その代表的な例は次の2つあたりだろうか。
どちらも基本的にある女子高生の恋の歌として解釈されている。
ƒy[ƒW‚ª‚ ‚è‚Ü‚¹‚ñ

(今日のところは)彼を持っていけばいいけど、最後に笑うのはこのあたしのはず。
なぜなら、私達は(セーラー服の)もっと若い女子高生だからです。
(せっかく制服を着れる)月曜日なのに、彼の機嫌が悪いみたいで、どうしましょうか。
でも実は、(冬服より)夏服のほうがよかったって思っただけのようです。(彼は)かわいいですね。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20071128/1196267421

要するに、『もってけ!セーラーふく』はかなり性的な要素をはらんだ女子高生の恋の歌ということがわかる。

以上の解釈ではサビの歌詞における”セーラーふく"は"女子高生”を表す記号として用いられ、
"恋敵=女子高生以外の女性"に対するアドバンテージとして位置づけられている。
どちらの解釈でもサビの部分の解釈において”もっていけ”は”彼”にかかっていると考えられている。
じつはこの点に引っかかりを感じている。歌詞全体の解釈としてどちらも面白いがただ一点引っかかる。
引っかかる点というのは"もっていけ"が何にかかっているか?という点である。
題名をそのまま解釈すると"もっていけ"は"セーラーふく"にかかっていると思われる。
題名からいけばもっていかれるのは"セーラーふく"でないといけない。だから”彼”はもっていかれない。
もうひとつは"セーラー服を脱がさないで"との関係である。
この歌が発表された当時から"もってけ!"は"脱がさないで"に対するアンサーソングとして書かれたのではないかと指摘されている。
もしそうであるなら"脱がされるセーラー服"に対して"持っていかれるセーラーふく"として対比されるべきだと思う。
そうであるなら"もってけ!セーラーふく"は何を歌っているのか?といまさら勝手に考えてみた。
さらにあまり注目されないカップリングである"かえして!ニーソックス"についても考えてみた。


"もってけ!セーラーふく"と"かえして!ニーソックス"について、
結論としてどちらの歌も女子高生の自意識について、つまり”あたし”についての歌だと考えている。

まず最初に"セーラーふく"と"あたし"の関係について考えておく。
"女子高生"という存在は"セーラーふく"などの制服によって表象される。
つまり女子高生は制服という記号によって女子高生という実体のない、固有の"あたし"から切り離された虚像に帰属させられる。
さらに言うと"あたし"は"制服"という記号により"女子高生"としてカテゴライズされることで社会的に認識される(特別な)存在になるということだ。
この視点をもとに以下それぞれの歌について見ていくこととする。
まずもってけ!セーラーふくの1番のサビをサビの部分を解釈してみる。

もっていけ!
最後に笑っちゃうのはあたしのはず
セーラー服だからです←結論

ここで"もっていけ"は"セーラーふく"にかかっていると考えると、
"セーラーふくが持っていかれること=特別な存在で無くなること"に対し"もっていけ"と女子高生は返事をする。
その理由は固有の"あたし"があるからかまわないのからである。(ただし"はず"という形で保留している)
だが"あたし"がいるのは結論として"セーラーふく=女子高生である"だからですと言ってしまう明らかな矛盾("はず"として保留された葛藤)がある。
これは2番の以下の歌詞でもうかがえる。

やってみな!
新規に狙っちゃうのはあたしの挑戦
セーラーふく着がえても=あたし

ここでも"セーラーふく"という記号を身に着けない固有の"あたし"が現れている。
"やってみな"が制服を奪われることに対する返答であるとすると非常に挑戦的である。
ここでは女子高生でない"あたし"を肯定的に捕らえている。
しかし、そのすぐ後に"制服はかんたんよ=ラクチン"といってしまう。
これは女子高生という実体の無いイメージによって捕らえられること、女子高生という集団に帰属すること、
つまり、"あたし"を奪われることを肯定していると考えられる。
ここでも"女子高生であるあたし"と"女子高生でないあたし"の間で揺れ動く姿が見て取れる。

以上見てきたように"セーラーふく"という記号により"女子高生"としてカテゴライズされることで
社会的に認識される(特別な)存在になるということと、固有の"あたし=自己"であるということの間のジレンマが描かれている。
つまり"もってけ!セーラーふく"は、セーラー服をもっていかれてもあたしはあたしであるし、あたしは女子高生であるからこそあたしなのだ
(だからこそ最後に笑ってしまう)という思春期ならではの葛藤こそが主題であると考えられる。

以上の解釈から考えるとカップリングである"かえして!ニーソックス"は"もってけ!セーラーふく"と対を成すものであると考えられる。
この歌は体育の着替えの際にニーソックスをなくした女子高生が一度はあきらめてみたけどやっぱりあきらめることができないという歌だ。
ここで重要なのは"ニーソックス"が何を意味しているかということだ。それは以下のサビ前とサビの歌詞から類推できる。

待った! アレはどこにある?
(なぁになぁに なんかまたトラブル)
だって! アレが見つからない
どこかに消えちゃったよ
(はいよはいよはいよ! どした言ってごらーん?)

私のニーソックス 返してよね
誰かはいちゃったんだ?
みんな似てるけど
ちょっと違うからね(わかんない!)
探してニーソックス 指の長さ
微妙なカタチなんだ
みんな似てるよで
女子は女子のバリエ

以上の歌詞ではニーソックスをなくした女子高生とおそらくその友達との掛け合いになっている。
注目すべきは”みんな似てるけどちょっと違うからね”という言葉に対し(わかんない!)と答えていることだ。
ここでは歌の中の女子高生は女子高生一般に、一方で友達は他者(女子高生以外)に拡大できる。
女子高生は制服により画一化されてしまった固有の"あたし"を取り戻すために、
制服を自分風に着こなすこと(女子のバリエ=スカートの長さ、アクセサリ、着崩し方など)で他の”女子高生”と差別化を図る。
"ニーソックス"はそのための重要なアイテムであり、それがないことは"あたし"がないことと同一だと考えてしまう。
だが他者からすれば着こなしによる差異は女子高生の中に含まれる誤差に過ぎない。
女子高生でない私たちでは個有の"あたし"を着こなしによる差異では区別できない(しない)。
だからこそ友達=他者の返答は(わかんない!)と答えるしかない。
同様のやり取りが次の箇所でも行われている。

二次元ニーソックス さよならです
つぎもだいじにするよ
色や長さまで
こだわってた萌えだし(そんなもん?)
くい込む感じ ちょうど良くて
お気に入りだったけど
色も長さもね
同じモノがあるさ

色、長さまでこだわっていた萌え=差別化は同じモノで今後も継続されうる。
少なくともニーソックスを用いた差別化の必要性があると女子高生は考えている。
しかし他者はその差別化に対し改めて(そんなもん?)と聞き返すしている。
これは上の解釈と同じように女子高生内部での差別化は周りから見ても誤差の範囲に見えることを表している。
だから、女子高生はそれに猛烈に反発する。
なぜなら"ニーソックス"がないと"あたし"がいなくなるからだ。

待った待って待っとけって! オイオイ
あんた知らないの?
だってらってカフェラッテ! グイグイ
アイテム消失
(ないよないよないよ! ないと落ちこんじゃう!)

そして"私だけのニーソ=あたし”をかえしてとそれを理解しない他者に対する苛立ちをこめながら”あぁもう”と叫ぶ。

やっぱりニーソックス 返してよね
誰かはいちゃったかも?
みんな似てるけど
ちょっと違うからね(わかんない!)
探してニーソックス 指の長さ
微妙なカタチなんだ
みんな似てるよで
私だけのニーソ

以上見てきたように制服により均一化される女子高生が"ニーソックス"という記号により他の女子高生との差別化を図り、
固有な"あたし"を演出する姿が描かれていると考えられる。

以上の考察から"もってけ!セーラふく"と"かえして!ニーソックス"はどちらも”あたし”をめぐる記号の問題として解釈できると思う。
"セーラーふく"により画一化された"女子高生"であり、"ニーソックス"よって差別化される女子高生である”あたし”の歌として。

メモ

以上だらだらと書いてきた内容を自分で読み返してみてなんか90年代的だなぁと感じる。
女子高生がルーズソックスからヤマンバへと変化する時代をリアルに眺めてきた世代的だなぁと。